宗恵の『一日一禅』

宗恵の『一日一禅』 180

月白風清(つきしろくかぜきよし) 夏は熱く冬は寒し 山は青く水は緑なり 天は高く地は厚し 月は白く風は清し という詩から採られた句です。 当たり前のことを並べただけのように思いますが わたしたちの周囲にあるすべてのものに対する純粋な感動が 直接的…

宗恵の『一日一禅』 179

體露金風(たいろきんぷう) ある僧が雲門(唐代に雲門宗を開いた禅僧)に尋ねました。 「木が枯れて、葉が落ちるさまはどういうものですか」 雲門は答えました。 「體露金風」 悟りを求める心もあらゆる計らいもすべて消え去った境地を雲門に尋ねたら それ…

宗恵の『一日一禅』 178

心如水中月(こころはすいちゅうのつきのごとし) 水面に映る月は、たとえ急流にあってもながされることなく 荒波に揉まれて形を乱しても波が収まればただちに元の光輝く丸い姿を取り戻す。 また、それを手に取ろうとして水中を探っても、掌中に確保すること…

宗恵の『一日一禅』 177

関山半窓月(かんざんはんそうのつき) 通り抜けることが困難な関所がある山の中で 庵の窓を半分開けて見る月が 大変苦難に満ちている修行中でも 素晴らしい悟りの世界が待っていることを知らせてくれる というような意味でしょうか。 ガラッと全部窓を開け…

宗恵の『一日一禅』 176

重陽九日菊花新(ちょうようくにち きっかあらたなり) 陰暦9月9日は陽の数である9が重なる、重陽の節句にあたります。 お正月7日の人日(じんじつ)、3月3日の上巳(じょうし)、 5月5日の端午(たんご)、7月7日の七夕(しちせき)と並ぶ 五節句…

宗恵の『一日一禅』 175

月落不離天(つきおちて てんをはなれず) 『五灯会元(ごとうえげん)』という中国南宋代に成立した禅宗の灯史(仏教界における歴史書)にある 「水流れて元海に入り、月落ちて天を離れず」からとられた句です。 水はどこを流れても結局は海に帰し、月は西…

宗恵の『一日一禅』 174

千江月一輪(せんこう つきいちりん) 悠々と流れる大河、山間を流れる渓流、町に流れる小川 わたしたちの周りにはたくさんの水の流れがあります。 それらすべての水面に、月は平等に一つ映しだされます。 どのような境遇に生まれても、大自然の恵みはみな平…

宗恵の『一日一禅』 173

慶雲生五彩(けいうんごさいをしょうず) 縁起の良い五色の雲が空に現れている様子です。 「慶雲」とはめでたいことの前兆として現れると言われています。 その特徴は、雲のようで雲でなく、煙のようで煙でなく 気体のようで気体でなく、香りを発するがごと…

宗恵の『一日一禅』 172

西風一陣来(せいふういちじんきたる) 西風一陣来たり 落葉両三片 西風が吹いてきたので、葉っぱが二、三枚落ちた という秋の日の情景を詠んだ句からとられた言葉です。 「西風」は寒さをもたらす秋の風の意味で用いられるそうです。 昨日、新潟は日中生暖…

宗恵の『一日一禅』 171

明歴歴露堂堂(めいれきれき ろどうどう) 「明」はあきらか「歴歴」はありありと著しいさま、ですから 「明歴歴」はあきらかに見えるという意味。 「露」はあらわれる「堂堂」は隠さないさま、ですから 「露堂堂」は何も隠すところなくあらわれている、とい…

宗恵の『一日一禅』 170

水和明月流(みずはめいげつにわしてながる) 『禅林類聚』などの見られる 「天は白雲と共に暁け 水は明月に和して流る」 を出典とする句です。 白雲のたなびく中太陽は昇り、水は明月を川面に映しながら流れていく という情景です。 お互いに融和しながら存…

宗恵の『一日一禅』 169

水急不流月(みずきゅうなれどもつきをながさず) きょうのお稽古場に掛かっていた句です。 明るい月が川面に映っています。 どんなに流れが急でも、月はそこに留まっています。 確固たる仏性があれば、どんな煩悩や妄想にも捉われることはない ということで…

宗恵の『一日一禅』 168

崑崙無縫罅(こんろんにほうかなし) 「崑崙」は西域にあると信じられた霊山のことですが 禅宗では仏法の根本、究極の真理の意味に用いられるそうです。 「縫罅」は縫い目あるいは隙間の意味で 仏教の真理や誰もが皆等しく持っている仏性が、混じりけ無く完…

宗恵の『一日一禅』 167

閑不徹(かんふてつ) 中国・南宋時代の禅僧・虚堂智愚が江蘇省にある報恩寺を退山するときに唱えた句 「雲は嶺頭に在って閑不徹 水はカンカ(変換できません)に流れて太忙生(たいぼうせい)」 からとられました。 雲は山の頂上のあたりに浮かんで、この上…

宗恵の『一日一禅』 166

鉄船水上浮(てっせんすいじょうにうかぶ) 一生居士でありながら出家者以上の悟境を形成したホウオン(変換できません)の残した詩に、 次のような一節がある。 生を護るには須く是れ殺すべし 殺し尽くして始めて案居(あんご)す 箇中(こちゅう)の意を会…

宗恵の『一日一禅』 165

萬重関鎖一時開(ばんじゅうのかんさ いちじにひらく) 悟りを得るには、様々な苦難の道を乗り越え乗り越え、やっとたどり着くように思います。 まるでインディジョーンズのよう…ちょっとたとえが不謹慎… しかし禅には『頓悟』というのがあり、あるきっかけ…

宗恵の『一日一禅』 164

深知今日事(ふかくこんにちのことをしる) 昨日の失敗にクヨクヨしたり、明日のお出かけにワクワクしたりしますが さて今日、目の前にあることを充分に把握して、今やるべき事をきちんとしているでしょうか? この「今」という瞬間があって、明日・一週間後…

宗恵の『一日一禅』 163

生死事大 無常迅速(しょうじじだい むじょうじんそく) 臨済宗の道場には時を告げるための木版が必ず置かれており、 一日に数回、その音が道場全体に響き渡る。 そしてその木版の表面には、道場での生活を一分一秒たりとも 無駄にしてはならないとの警告の…

宗恵の『一日一禅』 162

夏 緑陰蝉聲(なつ りょくいんせみのこえ) まだまだ暑い日が続きます。 夏の日中、木陰で体を休め、蝉しぐれを聞いている、という情景ですね。 特に禅的意味はないようです。 「蝉しぐれ」は日本の西と東では蝉の種類が違うので、鳴き声も違います。 これは…

宗恵の『一日一禅』 161

善哉(ぜんざい) 「善い哉(よいかな)」とも読みます。 ああ素晴らしい、その通りだ、などと相手の意見を肯定したり 賞賛したりする場合に使われます。 仏典では、師匠が弟子に教えを授け、その教えを弟子が復唱した後に 師匠がこの言葉で弟子を讃える、と…

宗恵の『一日一禅』 160

無山不帯雲(やまとしてくもをおびざるはなし) 水の皆月を含む有り 山として雲を帯びざるは無し という詩の一節です。 どんな水にも月は写り、低い山でも高い山でも雲がかかる ということです。 月はわたしたちが等しく持っている仏性。だれの心にもあるも…

宗恵の『一日一禅』 159

天晴日頭出(てんはれて にっとういづ) 天気が良ければ太陽が出る、というあたりまえのことです。 この「あたりまえのこと」を「あたりまえに行う」ということの難しさ。 それを教えている句ではないでしょうか。 わたしは常識的な人間だと思っておりますが …

宗恵の『一日一禅』 158

相見呵呵笑(しょうけんして かかとわらう) 「呵呵大笑」という言葉があります。 大口を開けて屈託なく豪快に笑う様子です。 呵呵と笑うことは、心の中に迷いやわだかまりがあるとできません。 悟った瞬間に呵呵と笑った、と言われる禅僧は数多いそうです。…

宗恵の『一日一禅』 157

心静即身涼(こころしずかなれば すなわちみすずし) 静かに坐って心の乱れを静め、まわりのあらゆるものに対する思いを断ち切ってしまえば ついには自分の体の存在さえ意識の中から消え去ってしまいます。 すると今まで思い荷物のように感じていた身体が、…

宗恵の『一日一禅』 156

水冷冷風颯颯(みずれいれい かぜさつさつ) 水はひんやり冷たく、爽やかな風が吹いている という暑い夏にはたまらない、清涼感あふれる句ですね。 禅においては、迷いや捉われが消え去った後の心の爽やかさを表しているそうです。 いくらクーラーの効いた涼…

宗恵の『一日一禅』 155

風送鐘聲来(かぜしょうせいをおくりきたる) 知らず何処の寺ぞ 風鐘声を送り来る どこのお寺で打ち鳴らされているのかわからないが 鐘の音が風にのって身近に聞こえてくる という情景を描いた詩からとられた句です。 夕方でしょうか、なんとなく郷愁を誘い…

宗恵の『一日一禅』 154

一口吸尽西江水(いっくにきゅうじんす せいこうのみず) 百数十人にのぼる弟子を育てて一世を風靡した馬祖道一(ばそどういつ)禅師が 居士(在家修行者)でありながら出家者に勝る境地に到達した「ほうおん(変換できません)」の 問いに答えた言葉の中にこ…

宗恵の『一日一禅』 153

自在(じざい) 禅において、あらゆる肉体的精神的束縛を離れた状態を「自在」といいます。 臨済禅師は自在の境地について、次のように述べています。 正しい見解を得たいのなら、人に惑わされるな。 内でも外でも会ったものはすぐに殺せ。 仏に会えば仏を、…

宗恵の『一日一禅」』 152

前三三後三三(まえさんさん ごさんさん) 中国宋代の禅の書『碧眼録』第35則の「文殊前三々」という有名な 公案(悟りの手がかりとして参禅者に与える課題)の本則後半にこの語があります。 無著禅師が文殊菩薩に聞きました。 「こちらの地方では仏法はど…

宗恵の『一日一禅』 151

不住青霄裏(せいしょうりにとどまらず) 昨日の「直に萬重(ばんちょう)の関を透る」に続く句です。 「青霄」とは澄み切った青空のこと。 いくつもの難関を通って悟りに達したけれども 澄み切った広々ととした青空のような悟りの境地に安住せず 精進を続け…