奈良時代の陰陽道

奈良時代 聖武天皇光明皇后の時に、東大寺・諸国国分寺が造営され
大仏造営も発願されて、仏教の国家的利用は天平文化として花開きます。
仏教が国家によって民衆支配の道具になりました。

仏教の陰陽道への関与が禁じられた、と先回お話しました。
これは陰陽道の地位が低下したように思われますが、
実は国民を仏教により支配し、陰陽道によって天皇の地位をより高めようと
仏教から切り離したわけです。

奈良朝政府は中国文化の摂取に熱心で、遣唐使の派遣を行いました。
養老元年(717)に留学生として唐に渡った吉備真備(きびのまきび/693~775)は
儒学のほかに天文・算術・陰陽・雑占などに広く活躍し、出世しました。
当時最新の唐代陰陽書籍を数多く日本に直輸入して
最先端の知識で政界をリードしたのでした。

この唐直輸入の陰陽五行の知識(書物)と技術(方技)を背景に
陰陽道の国家的利用はさらに進んだのでした。

このころから陰陽道の呪術化が拡がり、平城宮遺物を中心に
呪符木簡・呪符墨書・土器・人形(ひとがた)など多数出土しています。