宗恵の『一日一禅』 117
どう見ても風流とは言えない、しかしそこに何とも言えぬ風流さがあるという意味である。
風流さを徹底的に追求し、それを極めたところに、風流ならざるものをも受け入れる余裕がが生まれる。
しかし、風流を求めて風流に捉われるようになってしまうと、それはかえって不風流になってしまう。
高徳の禅僧が自由奔放に振る舞いながらも正しい道を逸脱しないのは、
「風流ならざる処也た風流」を体得しているからである。
私たちの日常生活に矛盾や不合理はたくさんあるけれども、その不風流を受け入れつつ
それに染まらないのが真の風流人と言えるだろう。
『淡交テキスト 茶席の禅語編 6月』より
「ああ、この人イヤだな。」と思う心に自分自身の嫌なところを見ている、と言います。
わたしは今までに三度、大変嫌な経験をしました。
思い返すと、相手がそうせざるを得なかった気持ちを、今は少しは理解できるような気がします。