宗恵の『一日一禅』 116

竹有上下節(たけにじょうげのふしあり)


これは昨日の「松に古今の色無し」の対句です。

松は常に青々としていて禅でいう「平等相」をあらわしています。

そしてこの句は、竹は上下に節で分けられていて「差別相」をあらわしています。

いつも登場する『淡交テキスト 茶席の禅語編』には

「平等相に裏付けられた差別相、差別相に裏づけられた平等相によって世界は形作られている。」

とあります。

みんな平等で、なにやってもいいんだ!

ではなく、同じ土俵にあがってもそこには年齢や立場、その人の積み上げてきた実績など

相手の背景にあるものを理解して接するということが大切ではないのでしょうか。

以前PTAの行事で唖然としたことがあります。

若い担任の先生に対して「○○さん(先生ではない)、これいらない?」

とタメ口でジュースを差し出す。

若いとはいえ「一応先生なのだから一応敬語を使って話すのが当たり前」と思うわたしはおかしいですか?

先生もタメ口で話してもらうのが嬉しいらしい、これもちょっと…と思うのはわたしだけ?

◎追記
これは実は以前にも取り上げたことのある禅語でした!

宗恵の『一日一禅』 13  です。

以後、気をつけます!