宗恵の『一日一禅』 23

主人公(しゅじんこう)


昔、中国の瑞巌寺に住んでいた師彦(しげん)和尚は

毎日大きな岩の上に坐って、自分自身に「主人公!」と呼びかけ「はい!」と返事をしてから

「目を覚ましているか、ボンヤリするなよ!」「はい!」

「人にだまされるなよ!」「はい!はい!」

とひとりで繰り返していたといわれています。

「主人公」とは本来の自己、真実の自己です。

しかし、主人公を忘れ見失っているのがわたしたち凡人の姿です。

主人は どこにいるかと キョロキョロ見まわすな

君こそ 主人

走りだす心をしずめ しかと それをつかめ  (法句経)

自分が自分の内に向かって探求し、その所在を確かめてみることです。

それにはまず、主人公をおおい、その所在をくらませている妄想執着の雲を払いのけること

なんだそうです。そうすれば、そこに自然と主人公が顔を出してくるということですが…。

常に自分自身に「主人公!」と呼びかけ返事することによって、改めて自分自身を認識する

ということから始まるのでしょうか。

利休は『南方録』で茶の湯は「主客ともに直心の交わり」でなければならない、と言っています。

直心の交わりとは、主人公と主人公が主となり客となって茶会に臨むことです。

主人公を見失っているようでは、真の茶人とは申せません。と西部文浄師はお話されました。