日本における陰陽道の成立 1

今年の長岡の花火は 震災復興を願って一段と素晴らしいとか。
昨晩見てきた人の話を聞いて、いいなぁ。行きたいなぁ。
でも、今晩もお仕事で~す。
そう、夜もお仕事なんですねぇ。さて何でしょう。
朝から晩まで働く宗恵です。

今日のお話は なんだか論文の題みたいですねぇ。
ということで、しばらくお付き合いくださませ~。


陰陽五行説は中国古来の思想ですが、中国に「陰陽道」と称されるものはありません。
陰陽五行の思想が日本に伝わったことが確実にわかるのは
日本書紀』巻22推古天皇10年(602)の記事です。

百済(くだら)の僧侶観勒が暦本・天文・地理・遁甲・方術の書を日本に献じ
朝廷の依頼によって日本官僚にその内容を講術し、思想と扱い方について教授しました。

その反映が聖徳太子による「冠位十二階」「憲法十七条」の制定と発布にみられます。
木(青)・火(赤)・土(黄)・金(白)・水(黒)を5段階大小の冠位にあてはめ
もうひとつ最上位の徳(紫)の大小を付け加えました。
十二階の「十二」は運命を司る北斗七星の周期から配当された十二将神の数に一致します。
冠位の五行配当で政治の調和を願い、十二階とすることで完全な秩序を目指しました。

また、「憲法十七条」の「十七」は陰の極数(一桁の最大値)八と陽の極数九の和です。
聖徳太子の生きた時代のただならぬ不穏な政治情勢を除災招福へとかえる意向がうかがえます。

憲法十七条」が発布された推古12年は甲子(きのえね)の年であり、
甲子と辛酉(かのととり)の年には革命が起こるとする中国の陰陽五行説に基づいています。

陰陽道にはまってしまいました。まだまだ続きますので よろしく!