宗恵の『一日一禅』 124

隔岸越山多(きしをへだててえつざんおおし)


呉越同舟」の語で有名な呉と越は、春秋時代に現在の江蘇省から浙江省に至る地域で栄えたが

この句は唐代の僧処黙がその二国の国境付近、杭州の郊外にある聖果寺(しょうかじ)から

南方を望んで詠んだ詩の一部である。

路は中峰より上り 盤回して薜蘿(へいら)を出づ
江に至って呉地尽き 岸を隔てて越山多し

銭塘江(せんとうこう)に至れば呉の栄えた土地は尽きるけれども

対岸には越に属した雄大な山々が遥か彼方まで続いているという情景を描いたこの句には

一切を尽くし切ったところに新たな世界が現われるという解脱の境地がしばしば託される。

『淡交テキスト 茶席の禅語編 6月』淡交社より


この句を見てわたしは田中角栄の「越山会」を思い浮かべました。

選挙区は違いますが、今でも田中真紀子さんは人気ありますね。

ロッキード事件などで悪い事をしたにもかかわらず、人気があったのは

わたしが思うに、田中角栄という人物は新潟県人にないものを持っていた

その憧れがあったのではないか、と思うのです。

あの脂ぎったエネルギッシュな行動力、一般的な新潟県人にはみられません。

いかがでしょう?

あれ?宗恵の『一日一禅』でしたよね。

きょうはちょっと違う話題になってしまいましたぁ。



わたしはいまだ、一切を尽くし切ったことはありません。

たぶん一生ないのではないかしら。

それだけ毎日を一生懸命に生きる、ということなのでしょうか。

のんべんだらりと生きていてはいけませんね…。